なないろの音符たち

バイオリン&ハープ、日本&ロシアのつれづれ日記

復活祭に思うヘンデルのVnソナタ第4番

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だいぶブログを書いてなく、
久々に開けたらふつうに入れず(?)
もう一つアカウントを作りかけてしまった…
みんなマメですごいと思う。。

GWには時間があるハズなので、何か書こうと思いたち!♪
(あるはずの時間も、この頃疲れやすくなったのか、無くなりがちなのですが…)


折りしも先の日曜日は、復活祭。⛪

(オーソドックスチャーチは旧暦で今年は5月2日です)

復活を一番直に見るようだと思います楽曲について、
ひとつ奮起して書きます。

ヘンデルのバイオリンソナタ第4番です。

🥚✟

ヘンデル(ハンデル)と言えば、
メサイヤの作曲家として知られ愛聴愛奏の方も多いですよ ね。私もよく弾いた曲でコンミスもやらせて頂きましたが、その時はまだクリスチャンでなかったので、キリスト教については物語題材とか背景とかバックグランド…程度にしか思っていませんでした。
それでも、毎回涙が出るくらいたいそう感動していました。

🥚✟

その後お導きにより、クリスチャンになる事ができました。
学生時代、私は日本人なのだからやはり仏教かなと、何度か法隆寺夏季大学で仏教を学んだ後、
ホームステイ(全無料!)のイタリアでカトリックの浸透に影響を受け、ロンドンに帰って受洗し、日本に帰ったらとプロテスタントを紹介していただき故郷にて通い、結婚するためにまたモスクワでロシア正教を受洗し、その後は横浜のハリストス正教会へ通っております。

🥚🍀

バッハなどのバイオリン曲を弾くときに思う神様のこと・Gloryは、演奏によって音に表わされるべきであり、それこそ演奏家の役目だと思ってきました。

と言うのも、私が中学2年生の頃に遡り、レコードでシェリングの弾くバッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」を聴きおえた時、一言
「あぁ、神さまっているんだな。。」
とそこで妙に信じたことが発端かと。

バッハは毎回曲を書き上げると、「主に栄光」とサインし作曲により表しました。当時は知りませんでしたが。

🥚✟🍀

その後また14年たちクリスチャンになって以来、僭越ながら私は音楽でお伝えできればと思い、教会などでよく演奏させて頂きました。
言葉で直に奇蹟を言われ、理解できず拒絶するよりも、音楽で感覚的に体感していくと、私がメサイヤで下地を積んだように、後で
「あぁ何たること、そうだったのか!」
と霧が晴れたようになる。

そのため出来る限り音に込めようとしてきました。
が40も過ぎたある時、もう言葉でも、言ってみようかなと思いたち、、(自分で表せる演奏に限度を感じたんでしょうか?)
母教会でのコンサートでこの曲をお話して演奏しました。するとお世話になった岩井牧師先生がとても喜んで下さいまして、音楽を聴いてこれ以上嬉しかった事はないと…(聖書の関連でですね)

🐣🍀

その内容を書きますが、勿論様々なご意見もあると思います。
時々、どこにそんな文献あるのかとか聞く方がありますが、今回は音楽上の私のお証しです。

音楽で神や王を褒め讃えることは、メサイヤのようによくありますし、熱心なヘンデルがバイオリン曲でも暗に書いたかも知れないことは、理解に難くないと思います。
そもそも音楽とは神様から人間へのプレゼントであると同時に、古代、人間から神への祈りと賛美に歌われ、発展したと言っても過言ではないかと思います。ので教会音楽(+ある程度までのクラシック)の音楽家は、神に背を向けた者では務まらないと考えます。(もちろん神に出会う途上は大切)

🐣🍀

今は復活祭から3日後、光明週間に書いており、
特に復活のテーマである第4楽章について書きます。
順に見ますと

🍀✟ 第1楽章
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アダージョのテンポのイントロダクション、
アフェトゥオーゾ・愛情のこもった、セリオーソ・信頼すべき と書かれ
おごそかな誠意をもった挨拶、上への礼拝、王または主への賛美に感じます。

これをグリュミオーの美しい音で聴いて感動しました。

🍀✟ 第2楽章
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アレグロは、より現実的になり、主の生誕、降誕祭がテーマではなかろうか。
至る所にクロスが使われ大変輝かしく、また「救い主が生まれるよ」という御使いのお告げ、活き活きとした歓び、刻々と細かく迫る時間や大きく立派な流れ、待望感が感じられないでしょうか?

 ⇒ルカ第2章8ー11節

🍀✟ 第3楽章ラルゲット

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これは、一連の流れから予想できるように、十字架上での受難を表してはいないでしょうか。
 
⇒ルカ第3章46ー48節

ヘンデルはこの曲を一番輝かしいとされるニ長調で表し、もっともであります。しかし3楽章のみ、その平行調ロ短調で書きました。これもあまりにも似つかわしく迫り、私は弾きながら泣いてしまいます。(本番は泣きませんよ。)

その訳は…フレーズのため息、最後の息、タイの我慢とふるえる涙、一音一音あがる切実な祈りを感じます。
アクセントは、(神の子が罪のためでなく人間の贖いのために受けたとされる)痛い傷と思いの傷のイメージもするので弾くのはとても痛々しく辛い。
そのなか、短調でのスローモーションの三拍子も、悲しく美しく高雅です。(口で簡単に言うほど、高雅に弾けたらよいのですが…)

ロ短調は、よくミサ曲や葬りの曲、瀕死、瀬戸際、土壇場に使われたりして大変印象深い調ですが、自分だってもしその時に臨めば
(まぁお迎えを待ちくたびれてこれでやっと死ねると喜ぶのでなければ、または若くして道半ばで逝くのでなければ、)目前の死に瀕し、ロ短調モードになるかなと思います。


🍀✟
長くなってすみませんでした、やっと第4楽章です。

これは三拍子のアレグロ
勇気が戻り、鼓動が高鳴り躍動感あふれ、足を踏み踊り祝う感じがいきなり最初から出て、
フォルテに続くピアノのくり返しも、溢れる歓びが内にこだましているかのようです。皆にいそぎ知らせに走り、栄光と感激に浸る感じ!

そしてリピート後。
属調イ長調へ5度はね上がりますが、
どうしたのか、ここだけ急に、お休みが有ります。
子供の頃、はじめて練習した時からこの曲は好きでしたが、いきなりの休みがふしぎでした。
(何だこれ? ま、休めばいいのね。)
その後なになにと追いつき、ロ短調に戻ってしまいます。

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大人になってから弾くと目の前に聖書の光景が啓け、一気にタイムスリップ。暗いなかで輝いています。

ヨハネ第20章27ー29節

それは…復活の後キリストが初めて現れた場に居合わせなかった12弟子のフォマが、
後から遅れ馳せ、弟子から復活の知らせを聞く場面です。
「そんな事信じない、自分はキリストの手のきず、脇腹のキズ跡に手を入れてみなければ信じない!」と。その後キリストが現れ、そうしなさいと。
ロ短調のフォルテ、劇的です。
フォマはそうしてやっと信じ、復活の歓びに与り
ニ長調に戻ってクレッシェンドします。

そうしてニ長調のテーマがオクターブ上で高らかに鳴り、さながらメサイヤの輝かしいトランペットのように響きます。
弟子たちの歓びや福音の足音を思わせ、めでたく曲は終了します。ジャーン


✨✨✨


如何でしたでしょうか…?

もし、ヘンデルがこれを意味して書いたならば、ヘンデルは私に「よくわかったね。」とか「よく休符のなぞを解いたね」と言ってくれるでしょう。♡ ダメ?

もし、ヘンデルが意図していなかった場合、
霊感が天才へそれとは知らずに書かせた、かもしれません。

もし、それでもなければ、一つの水が色々変化するように、食材は色々な料理にかわるように、芸術は奥深い多面生で様々なアプローチが試みられるので、
信心深い(?)人にはちょうど信心深く映るもの。ヘンデルさえ驚いているのではないか?と微笑っていただければ幸いです。



以上ヘンデルでしたが、
この他、
フランクのバイオリンソナタイ長調も似た構想があるのではと思います。
それを弾いた舞台上の事(一生に一度の経験)も、いつの日か書きます…
(もう2度と、あんな目に会いたくないけれど、ところがすごいことに…!でも信じられない人も居ると思うから書きにくい。)



長くなりましたが、最後まで読んでくださり有り難うございました。
読んでくださった方のお幸せを祈念したします✨
私のことも、お祈り頂けましたら幸いです。
また、他の楽曲についても思い当たれば教えてください。

最後に、フォマの聖書箇所を挙げておきます。

(文語なので漢字をかなにしておきます)

ヨハネ20 章
27節
フォマにいう、なんじの指をここに伸べて、我が手を見よ、なんじの手を伸べて我がわきに入れよ、信ぜざるなかれ、すなわち信ぜよ。
28 節
フォマ答えて彼にいえり、我が主よ、我が神よ。
29 節
イイスス彼に言う、なんじは我を見しによりて信ぜり、見ずして信ずる者は幸いなり。

(この聖句をはじめてお説教で習った時の感想)
私は見ないで信じたのだから、幸いなのだな。
でも音楽で何度も見せてもらったようなものだから…


「ハリストス復活、実に復活!」✨